こんにちは♪YUME♡miyakoです。
今日は、私のことを少し書きます。
と言っても、昔話や生い立ちを話すわけではなく、私の人生が大きく変わった出来事のお話。
2009年10月に、「臨死体験」をしたのです。
子宮筋腫を切除する手術で、命に係わる大手術でもなく、あっさり終わるはずでした。
しかし・・・・思いがけないことが起きたのです。筋腫が他の臓器とがっつり癒着しており、その癒着をはがす際に大量出血。
普通では死んでいるレベルの大量出血をいたしました(^-^;
3リットルの輸血というのは、医療関係者の方なら誰でもわかる、そう、「死ぬレベル」です。
午前中に終わるはずの手術が、終了したのが午後5時半。8時間半の大手術となりました。
私は、後に知ることになるのですが、手術室は大パニックだったそうです。
主治医からも、看護師長さんからも
「三途の川の向こう岸にタッチして戻って来た。」「よく生き返った。」
と驚かれました。
主治医に至っては(定年を数年後に控えた大ベテラン先生)
「僕の長い医者人生中で、3本の指に入る難しい手術だった。」という感想まで言わせてしまいました(^-^;
その先生の記憶に残る患者となってしまったわけです。
この大パニックの最中、私は全身麻酔中ですので、8時間半という長時間を2分くらいに感じておりました。
10月でしたが、手術室を出て麻酔から目覚めた時に、雪山で遭難したかの如く(経験はありませんが(^-^;)寒くて震えていたことだけは鮮明に覚えています。今覚えば、体温が下がって、死にかけていたのですね。夫曰く、手術室からストレチャーに乗って出てきた私は”真っ白なろうそく”だったそうです(>_<)
その後3日程、生死の境をさまよい続けました。40℃の高熱が下がらなかったのです。
実は、手術中、様々な奇跡が起きていました。
子宮筋腫の手術ですから、「婦人科」です。大出血が起きて、大パニックになって、急遽、外科のエキスパート、そう、ドクターX並みの名医が二人、召集されたのです。
このお二人の外科手術の名医(お名前すら存じ上げません)が、その日freeであったこと、すぐ来てくださったことこそ奇跡です。
また、あの病院でなければ、それだけの大量出血に対応できる輸血ができなかったことも、後に知ることとなりました。
私が全身麻酔で眠っている間に、多くの医療関係者の方々の努力があって、一命をとりとめたというわけです。
私は、知ります。
「命の儚さ」を。
「死ぬときって、こんなにあっけないんだな。」
と思い知りました。
覚悟も何もない、「あれ?死んじゃったの?どうしよう。あれもこれも途中なのに。」
という感じです(;’∀’)
長い時間をかけて、術後の体の回復と共に、「私が生きている意味」を考えるようになりました。
毎日、起きて、家事をして、仕事をして、夜が来て、眠って、また朝が来て。
そんな平凡な日々は、当たり前のことではないのだと。
今日死ぬかもしれないのだと。
だからこそ、普通の平凡な日々に感謝して、「ありがとう」の気持ちを忘れずに、
「他者への貢献」を生きる目的として生きていこう!!
そう思えるようになりました。
私は、なぜあの日、三途の川の向こう岸まで渡りきらずに、タッチして帰って来たのだろうか?
それには意味があるのだと思います。全て、起きていることには意味があるのですから。
「生かされている」ことを痛感していますし、この命のある限り、子ども達の教育で恩返しをしていきたいと考えています。
私の臨死体験には、”お花畑”も”天使や妖精”も”三途の川”も見えませんでした。
でも、心の奥底に無意識に”生きなきゃ”という思いがあったのでしょう。
まだ生きてやることがあるのだという、”生きる力”があれからの人生を支えています。
そして、2009年の臨死体験以降、良い意味で力が抜けました。
「どうせ人間はいつかは死ぬのだし、そのタイミングはいつ訪れるか分からない。だからこそ今を精一杯悔いなく生きればよいのだ。」
鎧も執着を捨てて、今を生きるようになったと思います(*^^)v
確かに友人たちには「すごく変わった。」と言われました。
私の命を、職業とはいえ必死に救ってくださった医療関係者の皆さまがいて、今の私がいるということを忘れた日はありません。
私も、教育者としてそうありたいと願います。
名前を告げずとも、目の前の子ども達と親御さん達の何かを変えるきっかけのような存在になりたいと願います。
今日は、私の教育への思いを伝え続けるパッションの源となった体験をお話しました。
今日はこのへんで(#^.^#) ごきげんよう♬